Les rencontres de Mayuko!(まゆこがいく!)

加藤登紀子とYae

2018-06-21 · 第558回のエピソードを聴く

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4回目のゲストは加藤登紀子さんと、その娘さんのYaeさん。日頃から、お2人がパーソナリティをつとめるラジオ番組『加藤登紀子の地球に乾杯』(ラジオ関西/RFラジオ日本)でも歌手同士、そして母娘ならではのトークに親しんでいたので、そこに私も参加してしまったような、不思議でとっても心地よい時間でした。フランスをテーマにお話ししながら、気づくとそれぞれの服でトリコロールができあがっていたのもおもしろい偶然です!

まずはお二人のフランスとの関わりから教えてください。登紀子さんはやはり歌からでしょうか。

登紀子1964年に日本アマチュアコンクールがスタートして、その2回目で優勝し、ご褒美にハンブルグ、パリ、ローマの旅行をいただいた、というのが私の初めてのパリ訪問でした。64年というのは東京オリンピックの年にあたります。実は私は大学ではフランス語を習っていなかったので、そのコンクールを受けるために日仏学院(現アンスティチュ・フランセ東京)で3ヶ月だけ初級のフランス語を勉強して、あとは全部シャンソンを聞きながら単語を耳で覚えて、発音を覚えて、フランス語で歌っていました。

フランス語で歌うのはとても好きで、いまコンクールで受かったときのテープを聴いても、なかなかいいんですよね。ふふふ。その後は、日本ではシャンソンだけを歌っている歌手、というわけにもいかず、どんどんシャンソンを歌う機会がなくなっていってしまって、すごく残念でした。

そうするうちに92年に、宮崎駿監督の映画『紅の豚』で、「さくらんぼの実る頃」という歌をフランス語で歌うことになりました。ちょうどその前の89年には、革命200年の記念の年にフランスでコンサートをしたことがきっかけで、全曲フランス語のアルバムを出したりしたので、その頃からはかなりフランス語を発音できるようになりました。

デビュー前からフランス語で歌いたい、という思いがおありだったのですか。

登紀子デビュー前は、本当はあまり歌手になるつもりがなかったんですね。演劇をやっていたので、どちらかというとサルトルとか、ボーヴォワールだとかに興味があり、あとは高校時代にアラン・ドロンに憧れていました。私たちの青春時代は、映画も文学も音楽もフランスに刺激されているんです。フランスというのはいちばん私の心の栄養になった国だと思いますね。

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Yaeさんもデビューアルバムからフランス語のオリジナル曲を出していらっしゃいますね

Yaeはい、フランス語ってなんて美しいんだろうって感じて、意味もまったくわからないんですが、この音を自分が出せるようになったらいいのになと思ったのがきっかけでした。それでアテネ・フランセに通ったことがあります。

私が学生の時は、アメリカ色が強いというか、ロックとか、アメリカ音楽が主流だったんです。その中で私は、まぁちょっとひねくれ者というか、あまのじゃくというか、英語じゃないものをやってみたい、という思いも強くて。その時にフランス語の音楽であるとか、フランスが発祥というワールドミュージックにもすごく惹かれました。

登紀子そう、ワールドミュージックをフランスが送り出したというのは大きいですよね。 私の長女は1995年に1年間フランスに語学留学していたんです。そのきっかけというのも、彼女は4年間大学で英語学をやったんですが、「それでどうだったの?」と聞いたら、「学校で勉強しすぎて英語が嫌いになった」と言うんですよ。

やっぱり言語は生きたものだから、生活の中で体験して初めてその言葉のありがたさがわかってくるものなので、長女に「1度外国に行ってみて、英語から解放されてフランス語で暮らしてみたら、また英語を愛せるようになるかもしれないじゃない?」と勧めたんです。そのころにYaeも姉を訪ねてパリに遊びに行ったり、アテネ・フランセに通いだしたんですね。

Yaeそうなんです。それで2001年にリリースしたデビューアルバム『new Aeon』に、「Gazon」というオリジナル曲があります。フランスの言葉をずっと羅列して語っていくんです。

登紀子あなたが好きで選んだフランス語の言葉でつくったのね。私はYaeが本格的に歌手をめざしだしてからファーストアルバムを出すまでは発言を禁じられて、あまりタッチしていなかったんですが、アルバムを初めて聞いた時に、この「Gazon」という曲はどういう経緯でできたんだろう、とびっくりしたんです。

Yaeメロディーというよりは、ちょっとエスニックなオリエンタルな音楽の中で詩をポエトリーしていく曲です。

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登紀子 私は89年に、初めてパリのユネスコホールでコンサートをしましたが、その時に観にきてくれたピエール・グロスという詩人に「登紀子さんにもっとフランスで活動してもらいたい。そのためにはぜひフランス語で歌ってほしい」と誘われました。それで彼が書き下ろした詩で、2年くらいかけてつくった全曲フランス語のアルバム『シパンゴ』を出したんです。フランシス・レイさん(映画音楽の巨匠)にも素晴らしい曲を作っていただいて、フランスでレコーディングしました。

そのアルバムをみなさんに知っていただくために、92年にピガールにあるラ・シガールというホールでコンサートをしました。第1部はアジアの曲、第2部はフランス語の曲を歌いました。92年というのは、フランスがワールドミュージックをいちばん盛んに発信していた時期で、今度は「登紀子は日本人なんだから、フランス語じゃなくてアジアの歌をもっと歌ってほしい」と言われたんです。それで95年に、日本発のワールドミュージックとして、『花』という沖縄の歌のアルバムをフランスでレコーディングしました。そこで関わったミュージシャンたちとの素晴らしい出会いとか、音楽をつくり上げていくときの姿勢だとか、本当にいい思い出になりました。

登紀子さんが外国の歌を歌われる時に、ご自身の訳詞で歌っていらっしゃるのはどうしてですか?

登紀子日本でシャンソンは、日本語に翻訳しようとした人がたくさんいたからすごくポピュラーになったわけですよね。昔エノケンさんといって、日本でいうコメディアン、喜劇役者のような、ボードビリアン的な人がいたんですけど、彼が日本で誰もフランスの歌だと気づかないまま流行らせたシャンソンがたくさんあって、それは素晴らしい訳で歌われていたんですよね。日本人が理解できる言葉にして。

そのあとに越路吹雪さんがいろんな訳でお歌いになっていますけれど、それはどちらかというと、たとえばエディット・ピアフやジュリエット・グレコが歌っているような、人生の奥深いところのありありとしたリアリズムみたいなものを歌う、というよりは、少し絵空事みたいな、夢のような世界を歌ったもので、それが日本のシャンソンだったんです。

私がデビューした頃は、すでにシャンソンが一般的になっていて、それこそ日本語の歌詞のついたシャンソンの楽譜集なんかもいっぱい出されていましたが、その訳がどうしても私は納得がいかなかった。シャンソンを歌うなら絶対に自分の訳で歌おう、というのは当初からこだわってきましたね。そもそもほとんどの歌詞は、歌う人がつくった訳じゃないんですよね。だいたい文学者だとか学者系の人や詩人がつくっていることが多かった。私が歌うならば、フランス語がもっている響きをできるだけ生かした日本語にしたいと思ったんですね。

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たとえば「枯葉」の出だしでも「Oh! je voudrais tant que tu te souviennes」と、こうズルズルした感じは、大見得を切って言いたいセリフではない。自分の心の内側にウズウズしている「Oh! je voudrais tant que tu te souviennes」というつぶやきなんですよね。でも、日本語では大げさな歌詞で歌われている。だから私は「思い出を抱きしめる…」と訳して歌っていて、それは気に入っています。

歌を伝えていきたい時の気持ちの流れというのは、そこで歌われている言葉の意味もあるけれど、響きがすごく大事。どういう響きで歌いはじめたいか。良い悪いだけではなく、歌手として自分の歌い心地が生かされた訳で歌いたいという意味で、私は自分の訳にこだわってきたということなんです。

Yae日本ではシャンソンというと一つのジャンルみたいなイメージがあったんですけど、フランス語を勉強して「chanson=歌」という意味だと知った時、「歌すべて」ということにとても自由を感じました。

登紀子でもね、たとえば「rendez-vous(ランデヴー)」は、フランス語では深い意味をもつ出会いではないけれど、日本では「恋人同士が出会うこと」になるし、たとえば「avec(アベック)」もただ「一緒に」という意味なのに、日本では完全に「恋人同士」「カップル」という意味になりますよね。だから日本人がいかにフランス語を通してイメージしたものが素敵だったか、ということがわかりますね。

ところで三姉妹のうち、お姉様もYaeさんもお2人ともフランス語に興味を持たれたのは、やっぱりお母様の登紀子さんの歌が家で流れていた影響がありますか?

Yae子守唄がフランス語のシャンソンでした。それは絶対あると思います!

登紀子聴くのは多かったよね。私はデビューしてから少しシャンソンと距離を置く時期はあったけれども、家で聴いているのはシャンソンが多かったですね。特にバルバラは大好きで、たくさん訳もつくりましたし、本当に何度も聴きましたね。

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Yae歌というと学校の音楽の授業で勉強するときは、綺麗で伸びやかであることが良しとされるんですが、バルバラは低い声で、グワーっとこう自分の心を歌っていたので、「ええ〜!?」っていう、「なんかすごいな」「格好いいな」という驚きがありました。

登紀子私はデビューするまでバルバラを知らなかったんですね。バルバラがディスク大賞をとった年が、私がデビューした1965年なんです。私が20歳になったのは、ピアフが亡くなった63年。その存在がピュッと際立った瞬間と、自分の人生の中でもすごく大事な瞬間というのが交差した時に、ものすごい影響を受けますね。

登紀子さんの代表曲がたくさんある中で、「この歌を歌う!」という歌選びはどんなふうに決まるのですか?

登紀子デビューする前の1年間、1回目のコンクールを受けてから2回目に優勝をめざしてチャレンジするまで、銀巴里というシャンソン喫茶で初心者研修のように歌わせてもらっていたことがありました。その銀巴里で、くどうべんさんという方が「桜んぼの実る頃」を歌っていたの。それがすごく素敵で、デビューしてからはなかなかシャンソンをレコーディングする機会がなかったけれど、72年に出したアルバムの中では、くどうべんさんの歌詞で「桜んぼの実る頃」を歌っています。

でも結局「さくらんぼの実る頃」は、いろんな方がお歌いになっているので、特に私の歌にしなくてもいいかなと、ちょっと遠慮をしていた部分もあったんですけど、『紅の豚』で宮崎さんが「ぜひ『さくらんぼの実る頃』をフランス語で歌ってほしい」と声をかけてくださって、それは本当に嬉しい提案でしたね。やっぱりいつかは歌っておかなきゃいけない私の大好きな歌でした。

今回『運命の歌のジグゾーパズル』という本にも書きましたけれど、「さくらんぼの実る頃」が歌われたパリ・コミューンの時代は、私の生まれる前、父や母の青春時代、日本で明治がはじまった頃と重なっていて、そういう流れからすべて私の歴史として感じるための重要な曲になりました。私という、加藤登紀子の歴史の中でいちばん本質を貫いている曲というのかな、それが「さくらんぼの実る頃」だと思いますね。

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また「愛の讃歌」という歌も、私はエディット・ピアフが大好きで歌手になったので、最も大事な歌だったんですが、やっぱり日本でポピュラーな歌詞はエディット・ピアフ自身が書いた詩の意味とは違うもので知られてしまっているということもあって、歌わずにいました。

やっと舞台の上で自分の訳詞で歌うようになって、そろそろレコーディングをしようかと思いはじめた頃に、夫が他界してしまったんです。すると「もしもあなたが死んで」という恋人が死んだ後のことを歌った、ものすごく胸に突き刺さるような歌詞が、あまりにも赤裸々で歌えなくなってしまったんですね。私はもう「愛の讃歌」を歌えないのかもしれないと思いながら過ごしたこともありましたが、夫が亡くなった2年後に「私が歌手として、もう一度自分を取り戻すために『愛の讃歌』を歌う」と奮起して、再びステージで歌うようになりました。そうしたら全然違う気持ちで歌えるようになったんです。そこからはもう、この「愛の讃歌」は改めて私のいちばん大事な曲になりました。

Yaeさんはこれからもフランス語の歌、フランスの歌を歌いたいとうお気持ちがありますか?

Yaeもちろん歌いたいですし、パリ、フランスに行って歌えたらいいなと思っています。私の友人も何人かフランスにいてブルースハープをやっていたりして、「来ればいつでもセッションできるんだよ」「こっちで一緒に音楽やろう」って誘ってくれているので、いつかやりたいなと思っている夢ですね。

Yaeさんの半農半歌手生活というのはどんな様子なんですか?

Yae大都会に生まれて自然に対する憧れもあったと思います。ちょうどうちの父(故・藤本敏夫氏)が千葉県に「鴨川自然王国」を作って、私は本当にしょっちゅう遊びに連れて行ってもらって、犬と一緒に走り回って、

登紀子蛇も好きだったわね。

Yae蛇も虫もいっぱいいるし…

登紀子いやYaeが蛇好きなのは保育園の時からだった。ミミズとか蛇が好きだったの。

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Yae本当に生き物が好きで、文字も読めないのに、名前は全部覚えていたの。鳥の名前とか、今は全部忘れちゃったんだけど。

登紀子そうそうYeaが4歳くらいの時に、野鳥の本をボロボロになるまで読んでいて、本に載っている鳥の名前を全部言えたんですよね。だから当然に字を読めるものとばかり思っていたら、実は読めていないことがわかって、余計びっくりしちゃって。字を読めずに全部覚えたっていうのがすごいなって、ちょっと変わった子供だなって思いました。

Yaeいま自分の暮らしのベースになっている場所が、千葉県の房総半島の下の方にある「鴨川自然王国」です。日本の故郷の風景がまだまだ残されていて、棚田があって、本当に美しい風景だなと思う場所で、農園やレストランをやったりして自分たちのライフスタイルをつくっています。

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フランスも農業大国ですね。

登紀子そうですよね。本当は日本が農業大国であってほしいと思っているんです。フランスの農業の現場もいろいろ見ましたけれども、ヨーロッパではいちばんフランスが日本と似ていると思いました。土が湿っていて、湿度がそれなりにあって、「心のあり方も似ている」とある方が言いましたね。「土が濡れているっていうのは、異文化を取り入れることができる人たちだ」と。「フランスと日本はそういう意味で心の風土が似ている」と。

日本も本当に土にも、気候風土にも恵まれているところなのに、その価値を捨ててきちゃっているところがあります。夫は日本の逆立ちしちゃっている文化が土俵を失っているということに危機感を感じて、本当に頑張って農場をつくってきたんですね。

登紀子さんは60年代からフランスに行っていらっしゃるわけですから、もう50年以上のお付き合いになりますね。そんな登紀子さんにとってフランスという国、そのフランス観とはどういうものでしょうか?

登紀子フランスというのはやっぱり世界なんですよね。当たり前のように世界なんです。エディット・ピアフが応援してきた歌手、イヴ・モンタンにしても、シャルル・アズナヴールにしても、みんな移民というか少数派、フランス人にとっては外から入ってきたフランス人ですよね。そういういろんな文化の豊かさをフランスの文化として育ててきた国でもありますので、やっぱりフランスは、世界のどんな国よりも、「人類はこれからどうあるべきか」という未来を見据えるのにいちばん向いている文化だと思うんですよ。いろんな文化を融合させて行く力もあるしね。だからこれからのフランスも、ぜひ世界でいちばん未来を開拓する国であり続けてほしいと思いますね。

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Tokiko Kato (歌手)
1945年、ハルビン生まれ。東京大学在学中の65年、第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。以後、80枚以上のアルバムと「百万本のバラ」「知床旅情」など多くのヒット曲を世に送り出してきた。コンサートも国内のみならず、カーネギーホールはじめ世界各地で行っており、92年には、フランス政府からシュバリエ勲章を受章。2018年「日本におけるロシア年」の今年は、ロシア・サハリン、ウラジオストクにてスペシャルコンサートを開催。歌手活動のほかにも、作家、女優、声優、環境問題へのアプローチなど、枠のない活動を展開中。 http://www.tokiko.com

Yae (歌手)
1975年、藤本敏夫と加藤登紀子の次女として生まれる。95年、音楽劇『コルチャック先生』で女優デビュー後、歌手活動をスタート。2001年、ファーストアルバム『new Aeon』をリリース。「くらしのね」「名も知らぬ花のように」「ロマンスをもう一度」など数々の曲が、CMタイアップ曲や番組テーマソングとなる。現在、三児の母として、千葉県の「鴨川自然王国」で、農も取り入れたスローライフを送りながら、今までの経験を生かしてライブ中心に活動し、様々なアートとのコラボレーションなど、しなやかなスタンスで活動の幅を広げている。ラジオ番組『加藤登紀子の地球に乾杯』(ラジオ関西/RFラジオ日本)では母娘でパーソナリティを務める。http://www.yaenet.com

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この対話は Chocolat! 第558回でお届けしました。 エピソードを聴く →